愚痴ぐちかえ

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相倉合掌造り集落 撮影:超空正道

当派の青年会員の手になる版画カレンダーは、月毎に替わる味わい深い版画とうんちく ある標語でとても好評です。ただ、その標語の内容については、得心できるものもあれば、理解に苦しむというものもあります。そのひとつ「愚痴に還りて往生す」も難解の部類に属するようなので、ここで、その意を考察いたします。

まず、日常会話の中で愚痴という場合、「愚痴をいう」「愚痴っぽい」などのように使い、いっても仕方のないことをくどくどと嘆き、益のない行為をいいますが、仏教においては、さん どくぼんのう、つまり、とんよく (むさぼり)・しん(いかり)・ (おろか)の一つとしてとらえられているものです。煩悩の中でももっとも基本的なもので、愚かでものの道理を解さないことをいいます。物事に暗いことからむ みょうともいわれます。

確かに、世の中のことが見えていないと、人生に起こり得るいろいろな問題に対し、適切な対処が出来ませんから、当然失敗も多くなります。この「無明の闇」は、なかなか明けることがありませんので「無明長夜」、「無明の眠り」あるいは「無明の酔」などといわれ、はなはだやっかいな煩悩なのです。

ところが、今回の標語である「愚痴にかえりて往生す」は、あえてそのやっかいな「愚痴に還りなさい」というのですから、意味が分からないといわれても当然でしょう。ちなみに、往生というのは、極楽往生のことですが、何も死後のことをいっているわけではありません。分かり易くいえば、「愚痴に還れば、自分がいる今ここが極楽浄土になる」ということです。そんな馬鹿なことはないと思われるかもしれません。でも、こんな話が、仏典に伝わっております。

釈尊のお弟子であった、チューダ・パンタカ(しゅはんどく )は、自分の名前も覚えられぬほど愚鈍でした。利発な兄と共に出家しましたが、さすがの兄もそんな弟に愛想をつかし追い出そうとしました。ある日、門の外で泣いているパンタカに、「なにを悲しむのか」と釈尊は、おたずねになりました。

パンタカは正直に、「どうして私は、こんな馬鹿に生まれたのでしょうか」とさめざめと泣くのでした。

「悲しむことはない。おまえは自分の愚かさを知っている。世の中には、賢いと思っている愚か者が多い。もしも、愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である」と釈尊は、やさしくなぐさめられて、一本の箒 ほうき と「ちりを払わん、あか を除かん」の言葉を授けられました。

パンタカは、それから毎日清掃しながら、与えられた「塵を払わん、垢を除かん」を必死に覚えようとするものの、「塵を払わん」を覚えると「垢を除かん」を忘れ、「垢を除かん」を覚えると「塵を払わん」を忘れてしまうのでした。

しかし、彼はそれを二十年間、もくもくと続けました。そして、「おまえは、何年掃除しても上達しないが、上達しないことに腐らず、よく同じことを続ける。上達することも大切だが、根気よく同じことを続けることは、もっと大事なことだ。これは他の弟子にみられぬ殊勝なことだ」と、釈尊は彼の、ひたむきな精進をお褒ほめになられたのです。

そしてやがて彼は、落すべき塵や垢といった汚れは、とんしん という、心の汚れだと悟り、ついに、かん という位を得て、悟りが開けたといわれています。

この仏伝は、日頃ざか しく生きている我々に、とても大切な示唆を与えてくれているように思えます。私どもは、学び、努力して段階を経て順に上を目指せば、いずれ完成された自分が待っているくらいに思っていますが、実はそれは妄想です。

我々生身の人間は、生きているだけで、塵や垢でまわりを汚しています。だから、掃除をするのです。心の掃除も同じことです。掃除をすれば、また新たな汚れが見つかったりします。パンタカは、そのことに気付いたのだと思います。

親鸞聖人に、「善し悪しという文字を知らない人はみな、真の心を持っている。善悪の文字を知ったかぶりして使うものは、大嘘の姿をしている」という和讃があります。法然上人は、「一文不知の愚鈍の身になして、知者の振る舞いをせずして、ただ一向に念仏すべし」「愚痴にかえりて極楽に生る」とおっしゃっています。

「善だ」「悪だ」「正義だ」「平和だ」といって、小賢しい人間ほど、自分を主張して争っています。愚痴をいうは無益ですが、愚痴に還り、我が身を全て弥陀にあずければ、そこに安心という救いが生まれるのです。

(潮音寺 鬼頭研祥)